今日からブログを改めます。個人的なブログに生まれ変わります。
日々、感じてきたことや、感じたことをもとに、書いていけたらいいなと思います。
些細なこともありますし、だから何?的なものもあると思いますが。
基本的に平和の心を共有できたらいいなと思ってます。
過去の活動のことの続きから書くのも大変で・・・書く暇なかったし。
というわけで、過去の仕事関係のブログの続きは書くのをやめて。個人的なブログにしちゃいますw
もしよろしかったら、和んでくださいね。
人生の峠道で、へとへと、のど渇いた~。。みたいな時に、ひょっこりと茶屋が現れて。
あ、椅子がある。座ろっと・・・・
みたいな。そんなイメージです。
さて、今日はこんな言葉を書いてみます。
偶然訪れてくださった皆様が、ちょっと一休みできますように。
☆☆☆☆ー 今日の独り言 ー☆☆☆
お寺の掃除とか、修行みたいな感じで小坊主さんたちが、やらされますよね。
小坊主さんたちじゃなくても、私たちは一般的に掃除をします。
ほうきなどでシュッシュと掃き掃除。掃除機で吸ったりします。
ほうきで集めるのが、ゴミだと思うと・・・・心が貧しくなりますよね。
私はこう感じています。
「集める塵も、地球や宇宙と一体。尊いもの。私より長く生き、存在してきた先輩。 ゴミではなく、光を集めているようなものだ。塵の一粒一粒に感謝して集めさせていただいている。塵の一粒に感謝して、神を感じられるかどうか。地球を感じられるかどうか。ゴミと思うか、感謝の念を集めることができるかで、大きく違う」
精神修行の初歩。躾や教育の初歩とも言えるべき掃除ですが。
宗教で言えば塵を集めることに神を感じられるかどうか。
そこの部分を見逃してしまうかどうかで、大切な分岐点となります。
普段の生活を営む私たちに置き換えた場合でもそうですよね。
その瞬間に、傲慢な気持ちは消えてしまいます。
私たちもいずれ塵になります。
その時に、ゴミとして扱われる、足で踏まれ、嫌悪され、そして忘れられると思うのか。
塵として地球の一部になって自然の理の中に戻ると感じるのか。
掃除一つで、心を洗うことができます。
安らぎを得て、妙なプライドは消し飛んでしまいますよね。
私はいつも、そのように考えて生きています。
だから、楽なんですね。
プライドも何も、些細なこと。
私にとっては、塵のほうが私のプライドよりも尊厳があり、価値のあるものなのです。
もしも、心無い口汚い人から「お前はゴミだ、クズだ」と罵られたとしても。
私の心は平静を失いません。
むしろ、塵の偉大さを思うゆえに、私の心は微笑みます。そうだね、ありがとう。と。
私は、塵やゴミよりも、低い位置に居るからです。
私の心は塵のように細かく砕かれており。だから何を言われようと、砕かれて粉々になることはありません。
元々砕かれているものを、どうやって砕くのでしょうか?
砕きようがないほど。
私の心は元々砕かれています。
塵を思うとき、私は感謝の念を感じます。
掃除をするとき、私はいつも塵の一粒ひとつぶに、ありがとうと、心の中で声をかけています。
今日は、ほうきと塵取りで集める「塵」についての独り言でした。