みなさまへ
無農薬のお米から、日本の活性化の第一歩を踏み出そう!
ということで、事業化に向けて、着々と日々精進しております。
こんど、名古屋のネットショップ運営、屋号「むすびちゃん」の実働メンバーと5人で30日にミーティングがあります。
来年から、事業者申請をしたり、内部の作業フローを実際に動かしたり。さまざまな困難と向き合いながら、議論も白熱させつつ。
熱と思いを乗せて、エンジンが始動しはじめます。
純粋な心を持った人が集まった結晶のようなチームです。
世の中に、たくさんの純粋なもの、良いものがあります。それを結んでいく。その始まりです。
みなさんには、意識の部分で、まず希望を持っていただくこと。
次世代に憂いを残さず、私たちにできることを、実生活の中に見つめていきましょう。
一人ひとりは出来ることが違います。役割も。生活も。
だからこそ。
希望を持ちましょう。
いま、みなさんが支えている生活。
未来に明るい希望を持てるように、心を明るくして、笑顔を大切に守っていきましょう。
輝いていきましょう。
心からの笑顔に、勝るものはありません。
それを大切にしようと思う気持ちが、ピースシーカーです。
ピースシーカーは、団体にもNPOにもならないと思います。
広い空や海のようなもの。この大地のような器。
合言葉のようなものです。
みな、出来ることが違い、関わり方が違う人たちが、希望を持ち合う場所。
それがピースシーカーです。
心を共有しましょう。
みなさんを結ぶもの、その合言葉。
みなさんの希望全員分で、ピースシーカーです。
まずは実働部隊として、形を作っていきます。
健康に寄与でき、美しい自然を守る農法を助けていきます。
そこから何が始まるか・・・どのようになっていくか・・・未知であり、期待も膨らみます。
必ず良い方向へ、物事が集合するようにしていこうと思っています。
がんばります。
みなさん応援してくださいね!
2011年12月24日土曜日
2011年12月18日日曜日
ピースシーカー発足から1ヶ月半
これまでの間いろんな事があった。
発足して1週間の間はいったい何をすればいいのか、本当に活動が始まるのか・・
活動の資金捻出はどうするんだ?
などなど、不安な事が多かった。
先の見えない不安だった。
まずは何を活動すべきか、どんな風に仲間が集まるのかも何も分からない状態だった。
活動の最初は縁のある人々と会うことだった。
初期は2人から始まった。トランブレーみゆきさんと二人で話し合って、何とか日本を良くしよう、と活動を始めることにした。10月24日に、まずは名刺を作った。それが活動の始まりだった。
縁のある方々と会っていこう。
それで10月後半に大阪と京都で一人ずつ。みゆきさんの紹介で会っていった。一人目はニューヨークに10年程在住して、大阪に帰ってきた方で、向こうでも、こっちでも全国の小学校の子供たちに絵を描いてもらい、それを海外の小学校や日本の小学校の子供達と絵を交換して学校で展示し合う。海外や日本全国の子供達にも絵を描いてもらって、それを交換展示し合うわけだ。
それによって、子供達が交流っできる。言葉を通り越したコミュニケーションによって、友好が深まる。
お互いに理解し合うことで偏見や恐れが和らぎ、お互いに国際的、全国的に興味を持ち合う。
そうすることによって、争いが無くなる未来を築こう、よりグローバルな交流を持ち合うことで、未来を拓こう。
子供達から始めようという。
本当に素晴らしい活動なのである。
彼の国際的な経験を活かして、お互いに協力しあう約束を交わした。
彼はWEBのプログラマーでもあり、アーティストでもある。
ピースシーカーでサイトを作る際には彼に依頼しようということになった。
二人目に会った京都の方は、京都市役所で地域活性化に関わる部署に務めながら、個人で地域活性化のNPO団体を立ち上げ、活動しているようだった。
市民同士が話し合い、京都の街をより良いものにしていこうというものだった。本当に素晴らしい人であり活動だと感じた。
この方にも、ピースシーカーの先々の活動で関わることがあれば、全面的に協力をいただけることになった。
11月の最初には、愛知県名古屋の街に赴き、そこでもみゆきさんのご縁のある方々と、次々に会っていった。
この時、まだ何から始めるか、全然決まっていない状態だった。
農業関係の仕事に就いている方々と多く出会い、日本の現状や問題点について濃密に討論した。
やはり、日本の未来を良くしていくためには、そしてその為に現在の日本を良くする為には、農業に関わる人々を活性化することが必要なのではないか?という思いが強くなっていった。
そしてその数日後、私は石川県羽咋市(はくいし)へ飛んだ。
そこでは自然栽培米を作る農家さんとJA、市役所と地域が一体となって、将来の地球の為にそして農家さんが生き残る為に先進的な農業を生み出そう、そしてそれを世界に広げようという活動を活発に行っていた。
無農薬栽培をJAが認め、共に取り組む。
それは日本では初めての試みだった。
最後までトキが生きていたこの土地は、その自然と棚田や生物、農村、そこで生活する人々すべてを含めて、広域の地域が世界文化遺産に日本で初めて登録された所で、世界でも6番目に登録されたのだそうだ。
TPPに負けない農業を作ろう、世界に無農薬、無肥料で行う永続的に農業を可能とする自然栽培、それは地球環境にも貢献することだった。美しい自然を残そう、未来の子供達に残そうという想いのもと、素晴らしい農法を発信しようという活動を行っておられた。
世界で初めて無農薬のりんご栽培を実現した奇跡のりんごで有名な木村氏を講師に招き、熱心に勉強会を開いておられた。
私は飛び入りでその勉強会に参加させていただき、翌日の農業フェスタではボランティアスタッフとしてイベントをお手伝いした。
私はその2日間で羽咋市JA本部の職員の方々と名刺交換をし、農林水産課の市の職員の方々、そして自然栽培を行う農家の方々と広く名刺交換をした。
木村氏とも面識を持つことができ、直接にメール交換をしていただける約束もした。というより、木村氏から個人的に私に、「メール送ってよ」と満面の笑みで言っていただいたのだ。光栄なことだった。
そしてJAでの自然栽培普及に一番熱心に取り組んで活動を推進されている課長さんと語り合うことができ、仲間として認めていただいた。
その事によって、羽咋市JAさんの情報やご協力をいただけることになった。
地域の農家さんとも交流を深めることができ、農業を活性化するという活動にご協力をいただけるようになった。
最初は分からなかった活動が、徐々に形を成していき、方向性が定まってくるきっかけを、11月の第一週で掴み始めたのだった。
長くなったので、この続きはまた次回に書く事にしよう。
まだまだ活動は始まったばかりだが、良いご縁に恵まれていることだけは確信できるようになってきている。
感謝を忘れないでいようと思う。
発足して1週間の間はいったい何をすればいいのか、本当に活動が始まるのか・・
活動の資金捻出はどうするんだ?
などなど、不安な事が多かった。
先の見えない不安だった。
まずは何を活動すべきか、どんな風に仲間が集まるのかも何も分からない状態だった。
活動の最初は縁のある人々と会うことだった。
初期は2人から始まった。トランブレーみゆきさんと二人で話し合って、何とか日本を良くしよう、と活動を始めることにした。10月24日に、まずは名刺を作った。それが活動の始まりだった。
縁のある方々と会っていこう。
それで10月後半に大阪と京都で一人ずつ。みゆきさんの紹介で会っていった。一人目はニューヨークに10年程在住して、大阪に帰ってきた方で、向こうでも、こっちでも全国の小学校の子供たちに絵を描いてもらい、それを海外の小学校や日本の小学校の子供達と絵を交換して学校で展示し合う。海外や日本全国の子供達にも絵を描いてもらって、それを交換展示し合うわけだ。
それによって、子供達が交流っできる。言葉を通り越したコミュニケーションによって、友好が深まる。
お互いに理解し合うことで偏見や恐れが和らぎ、お互いに国際的、全国的に興味を持ち合う。
そうすることによって、争いが無くなる未来を築こう、よりグローバルな交流を持ち合うことで、未来を拓こう。
子供達から始めようという。
本当に素晴らしい活動なのである。
彼の国際的な経験を活かして、お互いに協力しあう約束を交わした。
彼はWEBのプログラマーでもあり、アーティストでもある。
ピースシーカーでサイトを作る際には彼に依頼しようということになった。
二人目に会った京都の方は、京都市役所で地域活性化に関わる部署に務めながら、個人で地域活性化のNPO団体を立ち上げ、活動しているようだった。
市民同士が話し合い、京都の街をより良いものにしていこうというものだった。本当に素晴らしい人であり活動だと感じた。
この方にも、ピースシーカーの先々の活動で関わることがあれば、全面的に協力をいただけることになった。
11月の最初には、愛知県名古屋の街に赴き、そこでもみゆきさんのご縁のある方々と、次々に会っていった。
この時、まだ何から始めるか、全然決まっていない状態だった。
農業関係の仕事に就いている方々と多く出会い、日本の現状や問題点について濃密に討論した。
やはり、日本の未来を良くしていくためには、そしてその為に現在の日本を良くする為には、農業に関わる人々を活性化することが必要なのではないか?という思いが強くなっていった。
そしてその数日後、私は石川県羽咋市(はくいし)へ飛んだ。
そこでは自然栽培米を作る農家さんとJA、市役所と地域が一体となって、将来の地球の為にそして農家さんが生き残る為に先進的な農業を生み出そう、そしてそれを世界に広げようという活動を活発に行っていた。
無農薬栽培をJAが認め、共に取り組む。
それは日本では初めての試みだった。
最後までトキが生きていたこの土地は、その自然と棚田や生物、農村、そこで生活する人々すべてを含めて、広域の地域が世界文化遺産に日本で初めて登録された所で、世界でも6番目に登録されたのだそうだ。
TPPに負けない農業を作ろう、世界に無農薬、無肥料で行う永続的に農業を可能とする自然栽培、それは地球環境にも貢献することだった。美しい自然を残そう、未来の子供達に残そうという想いのもと、素晴らしい農法を発信しようという活動を行っておられた。
世界で初めて無農薬のりんご栽培を実現した奇跡のりんごで有名な木村氏を講師に招き、熱心に勉強会を開いておられた。
私は飛び入りでその勉強会に参加させていただき、翌日の農業フェスタではボランティアスタッフとしてイベントをお手伝いした。
私はその2日間で羽咋市JA本部の職員の方々と名刺交換をし、農林水産課の市の職員の方々、そして自然栽培を行う農家の方々と広く名刺交換をした。
木村氏とも面識を持つことができ、直接にメール交換をしていただける約束もした。というより、木村氏から個人的に私に、「メール送ってよ」と満面の笑みで言っていただいたのだ。光栄なことだった。
そしてJAでの自然栽培普及に一番熱心に取り組んで活動を推進されている課長さんと語り合うことができ、仲間として認めていただいた。
その事によって、羽咋市JAさんの情報やご協力をいただけることになった。
地域の農家さんとも交流を深めることができ、農業を活性化するという活動にご協力をいただけるようになった。
最初は分からなかった活動が、徐々に形を成していき、方向性が定まってくるきっかけを、11月の第一週で掴み始めたのだった。
長くなったので、この続きはまた次回に書く事にしよう。
まだまだ活動は始まったばかりだが、良いご縁に恵まれていることだけは確信できるようになってきている。
感謝を忘れないでいようと思う。
2011年12月15日木曜日
起業の準備 ネット機器の環境を整備
起業化して、まずは無農薬のお米の販売に取り掛かることになりそうです。
体に良い、本当に安全に食べることのできるもの。アトピーや化学物質過敏症などに苦しむ人々が助かるように。
流通の少ない無農薬米をサイトを通して流通していこうと考えています。
まず、一つの事から実働すること。
それだけでも大変な作業となると思います。
お米農家さんと会いに行き、ネット販売のサイトも作り上げ、人脈を広げ、様々な場所へ営業活動に行く。
移動先でもネット環境が整っているように、と、携帯をiphone4sに換え、持ち運び式のパソコンのモデムのようなルーターというものを使うようにして、Wi‐Fi 3G回線が全国どこでも繋がるようにしました。
お米のネット販売についても、実働できるメンバーが次々と集まりだしてきて・・・現在は5人のチームとなりました。
本当に良いものを、求める人の元へ。
いきなり大きなことはできませんが、まずは出来ることから地道に頑張っていこうと思っています。
自然栽培米の販売先に困っている農家の方が居られましたら、ご一報ください。
年明けから、販売に向けて動いていくと思います。
日本の農業に活力が戻るように、小さなことからコツコツと頑張っていきます。
体に良い、本当に安全に食べることのできるもの。アトピーや化学物質過敏症などに苦しむ人々が助かるように。
流通の少ない無農薬米をサイトを通して流通していこうと考えています。
まず、一つの事から実働すること。
それだけでも大変な作業となると思います。
お米農家さんと会いに行き、ネット販売のサイトも作り上げ、人脈を広げ、様々な場所へ営業活動に行く。
移動先でもネット環境が整っているように、と、携帯をiphone4sに換え、持ち運び式のパソコンのモデムのようなルーターというものを使うようにして、Wi‐Fi 3G回線が全国どこでも繋がるようにしました。
お米のネット販売についても、実働できるメンバーが次々と集まりだしてきて・・・現在は5人のチームとなりました。
本当に良いものを、求める人の元へ。
いきなり大きなことはできませんが、まずは出来ることから地道に頑張っていこうと思っています。
自然栽培米の販売先に困っている農家の方が居られましたら、ご一報ください。
年明けから、販売に向けて動いていくと思います。
日本の農業に活力が戻るように、小さなことからコツコツと頑張っていきます。
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